伊藤一洋の彫刻は、三人の中で最も人間に近い。ブロンズが持つ本質的な聖性/神聖を人間の生の中に、人間の生と最も間近く出現させるのである。たとえば最近、青梅市立美術館で見た『天體』と題される一連の床置き作品群は、そのタイトルから類推されるように、その形態の基本を球形に置きながら、小惑星のように歪つなもの、破れたもの、触手をのばそうとしているもののように多様な姿を見せている。それらは一方で頭蓋から伸びる延髄、鈍器で撲殺された頭蓋骨、空洞じみた眼窩をくろぐろと見せる髑髏といったように、その多くが人間の頭蓋骨を思わせる。ここで重要なのは天体も人間も多種多様で実はまったく同じものはひとつもないという事実だ。それゆえに人間の頭蓋と破れた星のアナロジーは万人の心に響く。
もう一つ語っておきたいのは、それぞれの作品の磨かれている部分とそうでない部分だ。ブロンズは時とともに当初の輝きを失ってゆく。その中で磨かれて光を放つ(反射する)部分は何を意味するのだろうか。そこに人間の生の明と暗を見る、というのではあまりに安易に聞こえるだろう。しかしそれは言葉だからだ。そこを見つめていれば、人間の生の明と暗の言葉では表せないグラデーションが見えてくるに違いない。同展で伊藤の展示の中心に置かれていた『Liquid Golden Baby №33-stand up my darling-』は、初めて立ち上がった我が子の姿であり、ほぼ全体が磨かれていることはとてもわかりやすい。