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hpgrp GALLERYにて開催中の三人展「ブロンズ至上主義」。今回の彫刻展は、申圭恒氏、伊藤一洋氏、黒川弘毅氏による三人展です。
本展によせて、詩人の田野倉康一氏が寄稿してくださいました。
 (左から、伊藤一洋氏、黒川弘毅氏、申圭恒氏)


田野倉氏は、1960年東京都小金井市生まれ。明治大学文学部文学科フランス文学専攻卒業。詩誌「洗濯船」同人。『行間に雪片を浮かべ』、『廃都』、『産土/うぶすな』、『流記』などの著書のほか、編書に『詩にかかわる』、共著に『身振りの相貌』、『複数の署名』などがあります。また、美術館図録やギャラリーのカタログなどに好きな画家や彫刻家などについても書かれています。
今回はその田野倉氏の寄稿くださった文章を、三人の作家の作品写真を交えながら、ご紹介します。

 


三人展『ブロンズ至上主義』によせて 
田野倉康一


彫刻という実存に強く魅かれるのは、そこに言葉が介在しないからだ。少なくともその制作過程において、言葉の先行を必須とはしない。絵画は1,2の例外を除いて言葉(あるいはコンセプト)を介在させなければ三次元(時に四次元)を二次元の平面に定着させることが出来ない。しかし彫刻、特にブロンズ彫刻において顕著なのは、申圭恒のステイメントにあるように、まずそこにあるのは期待であり、その実質的な過程は作者の認識の外にある。言い方を変えればそれは神の手に委ねられるということであり、彫刻とはまさに、言葉の外に出るということにほかならない。

本展の三人の作家は、ステイトメントの言葉を借りれば、いずれもブロンズというメディウムを選択したのではなく、ブロンズに選ばれた作家たちである。これを人間(作家)の側から言えば、木や石などから相対的にブロンズを選んだのではなく、ブロンズに対する絶対的な選択を意味する。そして三人の作家は、それを作家自身の素において全面的に受容するのだ。だからこそそこに出来するのは、ブロンズというメディウムを共にしながら、三人三様の絶対的差異にほかならない。

 (申圭恒/ushi#3, deer#16/Bronze/2019)


武蔵野美術大学2号館の片隅で、初めて申圭恒の作品を見た。鹿神だった。神の使いの神鹿ではない。鹿の姿をした神本体である。日本武尊がそこを見誤って伊吹山中に命を落とすことになったあの神である。多角の鹿という形姿からだけではない。もちろん作家から聞いたわけでもない。一目見てそう感取したのである。木枠をかけられ、美大の片隅に置かれたそれを作家に無断で飽かずにながめていた。いつのまにかかけられている木枠が消え、ブロンズが作家の手を超えて自ら凹凸し、形になってゆくのが見えるようである。あたかもブロンズの意思が見る者に直接伝わってくるように。申圭恒においてブロンズは見る者の目の前で神になってゆくのである。

 (伊藤一洋/天體No.30/Bronze/2019)


伊藤一洋の彫刻は、三人の中で最も人間に近い。ブロンズが持つ本質的な聖性/神聖を人間の生の中に、人間の生と最も間近く出現させるのである。たとえば最近、青梅市立美術館で見た『天體』と題される一連の床置き作品群は、そのタイトルから類推されるように、その形態の基本を球形に置きながら、小惑星のように歪つなもの、破れたもの、触手をのばそうとしているもののように多様な姿を見せている。それらは一方で頭蓋から伸びる延髄、鈍器で撲殺された頭蓋骨、空洞じみた眼窩をくろぐろと見せる髑髏といったように、その多くが人間の頭蓋骨を思わせる。ここで重要なのは天体も人間も多種多様で実はまったく同じものはひとつもないという事実だ。それゆえに人間の頭蓋と破れた星のアナロジーは万人の心に響く。
もう一つ語っておきたいのは、それぞれの作品の磨かれている部分とそうでない部分だ。ブロンズは時とともに当初の輝きを失ってゆく。その中で磨かれて光を放つ(反射する)部分は何を意味するのだろうか。そこに人間の生の明と暗を見る、というのではあまりに安易に聞こえるだろう。しかしそれは言葉だからだ。そこを見つめていれば、人間の生の明と暗の言葉では表せないグラデーションが見えてくるに違いない。同展で伊藤の展示の中心に置かれていた『Liquid Golden Baby №33-stand up my darling-』は、初めて立ち上がった我が子の姿であり、ほぼ全体が磨かれていることはとてもわかりやすい。

 (黒川弘毅/Eros No94.95/Bronze/2019)


『ブロンズ至上主義』と聞けば、多少美術の世界に首を突っ込んでいる者なら直ちに黒川弘毅の名を思い浮かべるだろう。その黒川の彫刻を30年以上享受してきた。播かれた竜の歯は確実に実り、その子孫を殖やしつつある。その彫刻を初めて見たのは『ゴーレム』、西武美術館でのグループ展だった。形を成す前の充溢した形、あらゆる方向に向かおうとして向かわず留まる力そのものの発現。そして何よりも黄金に輝く身体に暗黒が泡立つような湯口を見せるその姿に、神々しさと凶々しさをともに見た思いがした。ブロンズとは多種多様な個々人の痛みから光輝まで、果ては人間にせよ動物にせよ、植物にせよ、いや無機物でさえも、あらゆる存在するものに宿る神性とでも言うべきものを、言葉を介することなく直接可視化、可感化するものであることを一挙に感得するかのような体験であった。

 


申圭恒のステイトメントは、黒川弘毅に始まり申圭恒に至るブロンズ彫刻の本性を短い文章で見事に言い当てている。私がここで「神」と呼んだ超越性とはまさに、ブロンズの溶湯が作家の手を離れ、作家の認識の外で世界を変える、その変化の「必然的で偶発的で、専制的」な自由そのものにほかならない。この超越性/永遠性を共にしながら、ここに出来する三人三様の発現を私は心ゆくまで楽しむだろう。


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[ステイトメント]
ブロンズというメディウムは、作家たちに選ばれる材料ではなく、ブロンズに作家たちが選ばれる。ここで言うメディウムとしての選択は、条件ではなく、自分のあらゆる性向を虚飾と偽善なく、率直に全面的にすべて丸ごと受け入れる行為であり、いかなる論理が挟まれてもならず、条件も必要ない。ブロンズで鋳造されて生まれる作品を期待し、粘土を弄り、ワックスをつけ、削り取る。石膏の鋳型を作りながら、窯に焼いてブロンズを溶かしながら。私の手を離れ、重力によって地面に吸い込まれる白い溶湯は、私の認識の外で世界を変える。この変化は必然的に偶発的で、専制的に自由である。それは、この瞬間が超越性を持つためである。世界の変化を可能にするこの瞬間は、決してどの観念でも捉えることができず、現在、過去、未来のどこでも見当たらないものとして何度も現れ、その中から諸々の世界の全て=” 作品” が生まれる。全ての変化は永遠性を伴って現れ、この瞬間は時を越えた超越性=” 美しさ” を帯びる。ブロンズが何故美しいのかについて、3 人の作品が断言するだろう。
- 申圭恒

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-Profile-
申 圭恒(シンギュハン)
1991年、ソウル生まれ。武蔵野美術大学博士課程3年在中。
府中市美術館、佐野市文化会館、世宗美術館、国立新美術館、ソウル市立美術館、東京都美術館などでグループ展開催。
創造展、ソウル美術大展、二科展、佐野ルネッサンス鋳金展、權鎭圭賞などを受賞。
伊藤 一洋
1972 年、福岡県生まれ。武蔵野美大工芸工業デザイン学科卒。
hpgrp GALEERY TOKYO、AURA GALLERY (北京)、なびす画廊、ギャルリー東京ユマニテ、ラディウム レントゲンヴェルケなどで個展・グループ展開催。
黒川 弘毅
1952 年、東京都生まれ。東京造形大学卒業。
ときわ画廊、東京画廊、なびす画廊、コバヤシ画廊、hpgrp GALLERY TOKYO、府中市美術館、宇都宮美術館、川崎IBM 市民ギャラリーなどで個展多数。
東京国立近代美術館、セゾン美術館、滋賀県立近代美術館、横浜市民ギャラリー等でグループ展多数。

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[開催中の展示詳細]
■hpgrp GALLERY TOKYO
■三人展「ブロンズ至上主義」
■2019年12月6日(金) ~ 2019年12月27日(金)
■12:00~20:00(日・月定休)